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インカ街道の行軍とアンデス山脈の横断

アルマグロは1535年7月3日、50人の配下と共にクスコを後にし、モイナに同月20日まで留まった。その間、ピサロの弟フアン・ピサロがインカ皇帝マンコ・カパック2世を捕らえたことが、事態を更に複雑にした。

彼はモイナを一旦後にすると、彼に合流すると決めた50人の配下と共にインカ街道を行軍した。ボリビアの山脈を横断し、チチカカ湖の先に出た後、アルマグロはデサグアデロ川の岸に到着し、最終的にトゥピサにキャンプ地を定めた。そこを出た後、遠征隊はチコアナに立ち寄り、次に南東に進路を変えアンデス山脈を横断した。

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遠征は困難を極め、徹底的な努力を必要とすることが判明した。最も困難な局面はアンデス山脈の横断であった。標高約4,000mでの寒さ、飢餓、疲労は、スペイン人と現地人、そして特にそのような厳しい気候に慣れていなかった奴隷の死をもたらした。

生存者により後日詳細が語られたが、数人の仲間が、止まって、休息し、ただ凍死し、他のものはブーツを脱ぐとき自らの爪先がブーツに張り付けられる様を恐怖と共に見ることとなった。

この地点でアルマグロは、すべてが失敗であることを悟った。彼は少数の一隊に、先に進んで原住民に助けを求めるように命令した。幸運にもこの一隊は、コピアポの谷を発見した。そこは、ゴンサロ・カルボ・バリエントスという以前インカ皇帝の身代金を盗んだ罪でピサロによりペルーから追放されたスペイン人が、現地人と既に友好関係を確立していた場所であった。アルマグロはコピアポ川の渓谷で、チリの公式の領地を手に入れ、スペイン王の名においてそれを要求した。

なお、この山脈横断は、11代インカ皇帝ワイナ・カパックの息子パウリュ・トゥパック・ユパンキの援助によりなされたとする見解がある。

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2009年04月30日 12:40に投稿されたエントリーのページです。

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